街場の文体論

司馬遼太郎の文学は日本人のためのものなんです。日本人を抱きしめ、叱り、励まし、導く。国民を相手にして描いている。もちろん、素晴らしいスケールの企てだと思います。でも、外国人の読者には「自分は読者に想定されていない」ということがなんとなくわかる。(文春文庫 p.105)ミシマ社,2012.5

街場の文体論

僕は今「クリエイティブ・ライティング」という授業をする大学の先生として教壇に立っています。だから、それにふさわしい話し方をしています。でも、それだけじゃない。服装も表情も身体の動かし方も、実は全部「大学の先生」的に統制されているんです。(文春文庫 p.127)ミシマ社,2012.5

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でも、「個体識別できない」というのは言い方を変えると「いくらでも替えが効く」ということです。ひどい言い方をすれば、「いなくなっても誰も気がつかない」ということです。エクリチュールの及ぼす標準化圧力に対してあまりに無自覚だと、人間としての扱われ方が雑になるというリスクを引き受けなければならない。そういうことです。(文春文庫 pp.128-129)ミシマ社,2012.5

街場の文体論

これはフランス人の階層社会が生み出した病気だと思います。「知りません」という言葉を口にできない。「知りません。教えてください」という言葉を口にすることは恥だと思っている。駅でも、郵便局でも、ホテルのレセプションでも、レストランでも、観光客相手の接客をするのは、申し訳ないけど、階層上位の人ではありません。彼らは「知らない」と「教えてください」を口にすることを制度的に禁圧されている。そのセンテンスを口にすると人に侮られ、いらぬ借りを作ってしまうと信じている。でも、僕たちが社会的な上昇を果たしたいと思えば、現実的には方法は「それ」しかないんです。自分が何を知らないかは、何ができないのかを正確に言語化し、自分に欠けている知識や技能や情報を有している人を探し出して、その人から教えを受ける。「知りません。教えてください。お願いします」。学びという営みを構成しているのは、ぎりぎりまで削ぎ落として言えば、この三つのセンテンスに集約されます。自分の無能の自覚、「メンター」を探り当てる力、「メンター」を「教える気」にさせる礼儀正しさ。その光は整っていれば、人間は成長できる。(文春文庫 pp.132-133)ミシマ社,2012.5

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子どもの時から自然に身に付いた趣味の良さは「文化的正当性を手にしていると言う確信に伴う自身」をにじませますが、それだけではありません。(文春文庫 p.136)ミシマ社,2012.5

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後天的な努力によって身に付けた文化資本は「禁欲主義」の馬脚をすぐに表してしまいます。必死で勉強して覚えた知識なので、見たことのない映画についても、聴いたことのない音楽についても、飲んだことのないワインについてもつい「それについて知っている」ことを誇示してしまう。(文春文庫 p.136)ミシマ社,2012.5

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「鼓腹撃壌」という故事がありますね。賢君の誉れ高い帝尭の知性についてのお話です。尭が自分の国はきちんと治まっているだろうか国見に出かけます。すると,老いた農夫が「劇場(ボーリングとかペタンクの古代中国版のような遊びらしいです)」に打ち興じながら,お腹を叩いて歌を歌っている。(文春文庫 p.141)ミシマ社,2012.5